今、おかみの職業は ブラジリアン柔術の道場を経営&そのインストラクター という自営業です。 北海道の知床の小さな町で過ごしていた時は、 こんな職業に就くとは、全く想像していませんでした。 (そもそも48年前には、存在していない職種ですね)
幼稚園は、2歳から通いましたが、 幼稚園から、徒歩1分くらいの場所に 祖父母が働いていた公民館があった為、 帰りは、祖父に送ってもらって 一緒に手を繋いで帰ってきていました。 (コレが残念なことに同世代の友達を遠ざけてしまった)
運動を全くしない、読書家の母でしたので、 さしたるスポーツ的なものもせずに、小学校に入学。 一年生の時 父の思いつきで、いきなり 知床連山の中の最高峰 (1661m)羅臼岳登山を家族ですることになり その準備として、夏休みに 朝、走らされた事がありました。本当に嫌だったです。 でも、日本百名山に入る その山は 山頂に 天然記念物の花がたくさん咲いている場所があり、 エキノコックス(キツネの運ぶ寄生虫)を気にしながら飲んだ、湧き水が美味しかったことを覚えています。 その直ぐ後で、 大動物(牛馬豚などの主に家畜)獣医だった父が 「研究用」と称して飼い始めた仔牛の世話が始まり 5時半に起床して 裏玄関で汲んだ水を 牛舎まで運んだり、 牛の餌が入った袋を担いだり、 仔牛にミルクやったり、 一輪車で、おが屑を運んだりする 「お家のお手伝い」(にはちょっとハード)をしていました。 最終的には、その牛から得た利益で、私と妹は東京の大学に行く事ができたわけですが、 大変だった記憶よりも 仔牛が可愛かったことや、 牛の顔(柄じゃなくてね)が、一頭ずつ判別が付いていた事ばかり思い出します。 その小学生の頃の、私の足の壊滅的な遅さと 運動神経の悪さは、筋金入りで クラスでグラウンドを走ると、 一番最後に走っている 腎臓の病気の薬の副作用で、かなりなオーバーウェイトになってしまっている男のコの 一つ前を 走ってるポジションでした。 好きでやっていた筈の バトンも、 踊りの下手さとリズム感の悪さには自分でも辟易していました。 結構よく練習したつもりの スピードスケートも、 名だたるオリンピック選手を出すような少年団の中では、下の下にさえ入れない様な有様で、
でも凍った空気を頬に感じながら、氷を滑る楽しさは、ふんわりと覚えています。
運動は何をやっても、本当にダメダメで
そんな私が、大学進学の時に「日体大に行きたい」と言った時は
親、親戚、先生、友人に呆れられた記憶があります。
「いや、運動がしたいんじゃなくてね、
(そのころは)日本にあまりいないけど、「スポーツトレーナー」って職業に就きたいの」
という話をすると、不思議そうな顔をされました。
ま、でも一緒に受験した、バスケ部の仲間は分ってくれてたから
特に気になりませんでした。
運動神経がよくないくせに、体育大に迷い込んだ私は
「クラスで1番運動ができるんじゃない、学年で1番か、その学校で1番運動のできる人達」
のエリート集団の中で、
器械体操や、水泳、バドミントンや、陸上のハードル等
それぞれの専門家である同級生たちに
学ぶ機会を得ました。
良く一緒にいた友人が、器械体操の出身だったのですが、
「できない時は、そこの身体の部分を、
バンバン叩いて、その痛みがあるうちにもう一回トライするといい!」
と言って、わたしの左あしをペシペシ叩いて
何回も何回も、平均台の試験のための練習に 付き合ってくれたことがありました。
(↑科学的根拠あるのか謎・笑)
大学で上京し、バブルに浮かれる東京に唖然とし
「東京で生きるためには、沢山のおカネが必要だ」と思いこんだ私は、
スポーツトレーナーの夢をあっさり捨てて、フツーに就職活動をして、
その頃、ボーナスが一番良いというわれた業界の、証券会社に入社、
入社した年にバブルがはじけて、
結局貧乏一人暮らし。
「スポーツに関わる仕事したいと思っていた・・・」
と言う後悔が、ずっと頭の片隅に残り・・・
・・・イロイロあって、今に至ります。
結局、小学生の時にやっていた運動や生活習慣は、
特になにかの結果は、でなかったけれども
その時に「やったことある」という経験と、
その後の色々な人との出会いで、現在、なんとか、やっています。
31歳で私が出会った ブラジリアン柔術と言う競技は
あまり運動神経の要らない競技だと言われます。
練習量が、センスに勝る競技だと言われます。
試合に勝った子も、そうでなかった子も、なかなか挑戦しようとすらしない子も
練習沢山していたら、なにか得るモノがあるはずなのです。
後は、それを試す勇気を
仲間にもらって、自分がふりしぼる事が出来るかどうか。
小学校の時の勝ち負けよりも、もっとずっと大事な事は、
チャレンジする心だと信じています。
「成功体験を積ませる」
「勝ちに行く力を付ける」ナドナド・・・
世の中には、親御さんにとって耳触りの良い言葉に、あふれていて
私自身も、間違えてそれらをとらえたり、
ぐらつかないように、
私達は、
「子供のどんな可能性も、助けられるように」
有りたいと思います。
小学校のマラソン大会で、太っちょの男の子の一つ前を走っていた、
周回遅れの私は
スポーツすることと、それをしている人を見ることで幸せを感じます。
広く長く、のびのびと 色々な可能性を伸ばせるように
子供達を見守りたいと思います。
おかみ